ヴィパッサナー瞑想体験記 ~体験としてパンニャってきたよ~ 第六話

ヴィパッサナー瞑想体験記 ~体験としてパンニャってきたよ~ 第六話

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ヴィパッサナー瞑想体験記 ~体験としてパンニャってきたよ~ 第一話

 

◆第六話 思考は悪いことじゃない、ただその瞬間気づけばいいのだと感じる5日目

 
眠れない夜が断続的に続いていた状態で参加したヴィパッサナー。
初日の夜は寝れなかったけど、
ヴィパッサナーがはじまり、身体の感覚に気づけるようになってきて、眠りにつく前の感覚を取り戻してきた。

横たわり、体のあちこちに意識を運ぶ。
やがてその感覚は体全体を包み込む繭のような感じになっていて、
ほんのりとした温かさをもたらしていく。
そうしている間に眠りにつく。

以前は呼吸に意識を持っていきすぎて、スーハースーハーというリズムに、まだ思考が残ってしまう感じで、頭がさえてしまう感じがあったのだけれど、
今は呼吸は自然にただしているだけで、意識を体に持っていく方が安心感が高まる。

これは瞑想から帰ってきて今でも続けていること。
頭の中にある意識を、体全体に散らしていく感じだ。

 
5日目。
この日の思い出は「サンカーラ」という言葉だった。

今回のブログは体験記にとどめるため、
言葉を改めてWEBで調べなおしたりせず、聞いたままを書くので、
あくまで僕の解釈であるうえで、読んでみてほしい。(気になる人は自分で調べてね)

 
私たちの心がもたらす何かしらの衝動は、体に現れる。

たとえば、イラっとすれば、こめかみのあたりがピクリとしたり、
不安になれば、心臓のあたりがズワンとしたり、腹のあたりがしくしくしたりする。

こうやって心と体はつながっていて、
日々生きている中で起きるすべての心の動きは、体に浮き上がってくる。

瞑想のあり方として、
過去に対する後悔とか、他者に対する嫌悪だとか、未来に対する不安といったものへの執着を手放し、
「今ここにいる感覚」を感じ取るということは以前から聞いたことがあった。

ゴエンカ氏の講話では、
これらの「苦悩」は粗削りな感覚として体の表面にあらわれてくると学ぶ。

なるほど、とすると、僕のゴリゴリっとした感覚は、この苦悩が表に出たものなのだと。

この身体への表れを「サンカーラが表出する」ということだと僕は理解した。

 
そしてこの身体表出に、いら立ちもせず、不安にもならず、
ただ意識を傾け見つめているだけで、やがてこのサンカーラが消えていく。
体の表面がゆるんでいくとともに、心に中に生まれたサンカーラも、同時になくなっていく、
というのがヴィパッサナーの教えだ。

しかし人は、毎日、どんな瞬間も、心に苦悩というサンカーラをためていく。
その度に、そのサンカーラは体の表面に湧き出る。
それは座禅をしていなくても、気づこうとすればいつでも気づける。
そしてその身体の変化にただ気づき、意識を傾ければ、
表面に出た小さなサンカーラを、その瞬間に解き放つすることができる。

そうしていけば、サンカーラが体にたまり続けていってしまい、苦悩にまみれてしまうこの日々から抜け出すことができる。
そして、1日朝晩の瞑想で、「過去からたまってきたサンカーラ」を少しずつ燃やし続ければ、
やがて私たちの体の中に澱のようにたまってきたサンカーラがすべて燃やされる時が来る。

そのときが、私たちがいかなる苦悩から解放される瞬間であり、悟りと呼ぶのだと。

 
ブッダは悟りを得たが、誰か他者を悟りをもたらす存在ではない、
あくまで悟りの道を歩むのは本人であり、
ブッダが頭を撫でたらサンカーラが急激に燃やされるというような魔法使いではない。

悟りへの道を知り(ダンマ)、それを歩む生き方をするのは、私たち一人一人である。

 
1日中瞑想をした夜に、こんな話を聞くと、なんだか頭だけじゃなくって体に染み入ってくる。

その昔、浪人中だっただろうか、手塚治虫のブッダを読みふけったことを思い出す。

悟りを得ようと苦行を続けるゴータマシッダルタが、
「こんなことは意味ないのだ」と気づき、
生きとし生けるものが、ただ今ここにあると
自我を手放ししていくストーリーが、ふと頭に浮かぶ。

ある人につけられた自分のあだ名が
「悟らないシッダルタ」
であったことを思い出し、一人ほくそ笑む。

僕の持つこの苦悩は、思考が生み出すものだ。
おそれだ。

思考が強い、そのくせ感覚を追い求める。そういうところが僕にはある。

いや、僕にだって思考だけじゃなくって、もともと感覚がある。
なのに思考が強いあまり、感覚が見えなくなっていた。

その結果、おそれにまみれる。

そんな自分をシッダルタに重ねる。

 
座っていても思考は止まらない。
こんな妄想や、過去の思い出が頭に浮かぶ。

でも、思考することは悪いことじゃない。

この思考が、また新たなサンカーラを生み出すのならば、
その瞬間、サンカーラの表出に気づき、解き放ってあげればいい。

 
サンカーラが燃え尽きること、悟りを開くことは、僕が今、望むことじゃない。
そこにあまり執着はない。

それよりも、今この瞬間、体に浮かび上がるサンカーラに気づけることがうれしいことだ、

「ああ、そういうことか」

と腑に落ちる感覚を得る。

 
ヴィパッサナーは「瞑想状態に入る」ことが目的なんじゃない。

いつも、どの瞬間も、自分のことを気づけてあげられる自分でいること。
それがヴィパッサナーなんだなあと感じる。

 
そうすると体にムワムワーっと温かい空気のようなものが走り始める。

サウナで汗をかき、そのあと水風呂に入った時、
体の周りに温かい膜みたいなモノがあるのを感じるが、あれに近い。

びりびりっと走る電気ではなく、
体を包みこむ温かい感じ。

ああ、これは気持ちいい。

 
この感覚を追い求めようとしたくなる。

 
ゴエンカ氏の言葉を思い出す。

「粗削りな感覚を嫌悪するのでもなく、微弱な電気のような感覚を追い求めるのでもなく、
ただ見つめるのです」

 
そうか、僕が今、気持ちよさを求めてしまう、この感覚が渇望か。

渇望もまた嫌悪や不安と同じように苦悩を生む。

「そうなりたい、そうなりたい、そうなりたい」はサンカーラとして体に現れる。
微弱な電気として。

心がワクワクしたときに身体を走るビリビリという感覚、武者震いに近いようなあの感じ。

そのことをただ見つめることで、やがて渇望もまた解き放たれていく。

 

頭のてっぺんから、つま先の先に意識を走り続けさせる。

なんだか少しずつ、体の複数の部分を同時に感じられるようになってくる。

 
胃のうらっかわだろうか、背中の左部分に、スンスンとした鈍い感覚がある。
左のこめかみの上に、モワンとした雲がある気がする。
腰のあたりに、突き上げるような気の塊がある気がする。

 
ああ、こんなにいろんな感覚があったんだね。

 

一回いい感じのところにたどり着けたような気がした5日目。

 
ほかの人たちはどうなっていたか。
瞑想中にほかの人を見たりすることはほとんどないのだけど、
僕の心にサンカーラを生み出した「二つの他者の行動」があった。

僕の右隣は、ハギスの咳からある人が脱出したため空席となっていたのだが、
そのさらに右隣にはずいぶんと年を重ねた「苦悶おじさん」がいる。

そのおじさんは、寝る部屋でも同室で、寝る前もまじめに布団に座禅を組んでいるのだが
どうにもこうにも苦悶に満ちた表情で座禅を組んでいる。
苦虫を噛み潰した、というのはこういう顔だろうと思う。

聖なる沈黙が守られているので、心のうちはわからないが、
おそらく、思考が強いんだろうなと、見て取って感じる。

なにかしらの悩みや思いがあってこの場に来ているのだろう。
それをどうにか解決したいのだろう。
日に日におじさんの顔は苦悶に満ちていく。

しかし、おじさんを見ながら僕の中に生まれたのは、おじさんを評価しようとする僕の心の揺れだ。

「自分はできている、こうすればいいのに、なんでそうやって力を入れっぱなしにするの・・・」

 
そんな気持ちが浮かんでくる。
ああ、自分のこのおせっかいなところは、裏っ返せば面倒見の良さとか、積極性だとかいうのだろうけれど、
聖なる沈黙が守られているからこそ見えてくるのは、
この他者への関わりは、すべてとはいわないが、けっこうな割合で、自分と他者の「比較」から生まれている。

この比較は自分を苦しめる大きなサンカーラで、
それが僕をこの瞑想の旅にいざなったんじゃないか。

そんな思考が渦巻く中、僕はもう一度目をつぶり始めた。

 
苦悶おじさんとは別で、
僕の心にサンカーラを生み出したもう一人は、ヤンモン。

ハギスと並ぶ、個性の強いキャラクターだ。

ヤンモンとはヤングモンク(若い僧侶)の略。

このヤンモンは、あとからわかるのだが僧侶でもなんでもなく、
ファッションとしての僧服を着ている、ファッションモンクでもあった。

 
このヤンモンは、聖なる沈黙を守らなかった。
守れなかったというべきか。

 
彼は、禁を破ってしまった。

それは5日目か6日目の昼だった。

 
昼休み、先生に指導をたのむ生徒の数は増え、
瞑想ホールの二階には待つ列ができていた。

僕も、ちょっと気になることがあって並んでいたのだが、
「こりゃとても間に合わないな」と、席を立とうとしたとき、
ヤンモンが階段の下から列に並ぶ僕たちを見てこう言ったのだ。

「ひひひ、迷える子羊が、今日も並んでいるね」

 
この瞬間、僕の中の怒りのサンカーラが、燃え盛った。

 

続きは次回。

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